フランシス・フォード・コッポラ監督による1983年公開の青春映画『アウトサイダー』の原作。米オクラホマ州タルサ出身の女性作家 S・E・ヒントンのデビュー作です。
初版は1967年。前回ご紹介した「That Was Then, This Is Now」(レビューはこちら>>)は、本作の続編という位置づけになります。
ちなみに私が購入したのはこちらの版になります。
あらすじ
タルサの街では、東側の地域に住む貧困層のギャングGreasersと、西側に住む比較的裕福なコミュニティのギャングSocsが激しく対立しています。
Greasersのメンバーである主人公ポニーボーイは、両親を自動車事故で亡くし、2人の兄とともに助け合って生きていました。ポニーボーイの友人ジョニーは、仲間からはペットのように可愛がられていますが、おとなしい性格であるがゆえに常にSocsの標的となっています。
ある日、ポニーボーイとジョニーはそれぞれの家庭でのいざこざが原因で家を飛び出し、夜の公園で共に過ごしていたところをSocsのメンバーに囲まれてしまいます。激しいリンチに遭うポニーボーイを助けようと、ナイフを手にしたジョニーがSocsの一人に襲いかかり…。
暴力以外の自己表現方法を知らない少年たち。
「That Was Then〜」同様、物語のベースになっているのは経済的格差や道徳観の欠如などです。
自らを「ホワイト・トラッシュ(主にアメリカ南部に住む白人低所得層の蔑称)」と呼び、自己肯定感の低さと希望の見えない人生への諦めから、「自分たちと違う」というだけの理由でお互いを傷つけ合う少年たち。Greasersの暴力が経済的余裕のなさからくるフラストレーションの爆発であるのに対し、Socsのそれは単なる暇つぶしで、自分より弱い立場の者をいたぶる以外にやることがないからだというのだから、本当にひどい話です。
出発点の違う争いが終わりを迎えることはなく、ただひたすらエスカレートしていくだけなのです。
この構図、現代にもしっかりと通じています。違いは、凶器がナイフからスマートフォンに変わったことだけ。そこには血こそ流れていないかもしれません。しかし、立場の違う者同士がスマホを介して激しく罵り合い、またその様子がスマホの小さな画面に際限なく流れるのを目の当たりにしているうちに、人の心はどんどん失われている気がします。
大人としての役目とは。
暴力以外に自分を誇示する方法を知らずに育ってきた少年たちは、地獄のような環境から抜け出す術を知りません。また、大人たちの存在も非常に希薄で、子供たちを光の射す方へ適切に導いてくれる人がいないのです。子供たちは常に不安を抱えたまま、次の日の朝を迎えることになります。
この小説の救いは、過酷な状況の下で暮らしつつも「この状況から抜け出したい」「この状況をなんとかしたい」と考えている少年少女が存在すること。彼らの声にならない悲痛な叫びに胸がキリキリ痛みますが、10代の彼らはわれわれ大人が想像している以上に大人であり、ものごとを自分の頭でしっかりと考えているのだということを改めて認識させられます。大人は(特に日本では)あまりにも、子供を子供扱いしすぎです。
外には可能性に満ちた世界が広がっていることに気づきながらも自力で這い出すことのできない、そんな子供たちを導くのは私たち大人の役目です。子供たちはいつの時代も、そういう大人の存在を心の底で切実に望んでいるのだと思います。私は一人の大人としてもっともっと「声なき声」に耳を傾け、子供たちに希望を語れる存在であり続けなければ…と、この本を読んで強く思いました。
今の私にできることは、本を読むことで目の前の世界が無限に広がる喜びを、拙い文章ではありますがこうして細々と発信していくことだけ。この想いがいつか誰かの元に届くといいなと願いながら。
そして、「違い」ばかりを強調して他人を攻撃している人たちには、この本から拝借したこの言葉を贈りたいと思います。
「ウエスト・サイドで見る美しい夕焼けは、イースト・サイドで見ても同じように美しい」
この意味わかってもらえるといいな。
なお、今回S・E・ヒントンの2冊を読むにあたり、続編の方が先に届いた関係で読む順番が逆になってしまいました。話はそれぞれ独立しているので問題ないのですが、やはり「The Outsiders」を先に読んだ方が物語の前提となる部分をしっかり把握でき、続編にもすんなり入り込めるのでオススメです(当たり前ですね)。そして、「The Outsiders」のキャラクターの何人かは続編にも登場しますので、そのあたりもお楽しみに。
2024年8月追記:
コメント